「僕は君を幸せにはできないと思う」
彼が窓を開けると涼しい風が熱帯のような暑さの部屋に流れる。
恋人のコーラルは栗色の髪をなびかせ、ずり落ちそうになる眼鏡のブリッジを持ち上げ位置を元に戻すとそう言い切った。
同棲しているマンションは適度に広く、2人でいても窮屈さは感じられずむしろ開放的だ。壁にはコルクボードがかけられ、2人の思い出の写真がいくつか飾られている。ここに来てもう1年が経ったのか。
毎日使っている同じ、木製のテーブル。食卓を囲もうと支度していると彼は空の向こうをじっと見つめるのであった。夏の日差しというのはとても目がやられるだろうに。
「俺は今日も博物館に出勤なのだが」
朝食はすでに出来上がっているため席に着こうとする。クロワッサンにハッシュドポテト、ケチャップを添えて。そしてカットされたグレープフルーツが瑞々しい。
今日は洋食なんだな。まあ、コーラルの作ったものならなんでも美味しいからな。俺もそろそろ焦がさない程度にはトーストを焼けるようにしないと。
「先食べてるぞ。お前は今日仕事が休みだけれどもこっちは急いでいるからな
その、『幸せにできない』?とやらの件については帰ってきてからにしてほしい」
クロワッサンにバターを塗り、頬張る。やっぱり焼きたてが一番だ。
「……ていうか、もう充分に幸せなのだが」
ぼそりと呟くとコーラルはやっとこちらを向く。僕も食べよ、と言いグレープフルーツから口に入れる。先に炭水化物を取るよりフルーツや野菜から食べる方が血糖のためにいいだとか。そういうことを聞いたことがある。
「おいしいなあ、フルーツもそうだけどこのクロワッサンもサクサクしていてとてもいいよ」
「仕事帰りに博物館近くのパン屋で買ってきてるからな。評判通りとても美味いな!! 」
「そのパン屋さんって……」
腕時計が7時30分をさす。
「俺もう行くよ。始まるの8時からだ」
「そっか。頑張ってね」
「おう! 」
玄関、お互いの頬にキスをする。この毎日のキスのやりとりはなんだかおまじないかのようで、今日も一日乗り切ろう!そんな気持ちにしてくれる。
「いってきます!!」
「いってらっしゃい」
……朝言ったことは少し疲れているからだよな?こんなにも毎日充足感があるし、きっとコーラルは毎日の多忙で疲れ切っているんだろう。
悩んでいても仕方がない。その気持ちは後にし、キスされた頬を優しく撫でながら勤務先に向かった。
.
ーバタン
扉が静かに閉まった。
ああ、寂しいなあ。
1人でいるには広いこの部屋がその気持ちを助長させる。
こんな時、僕も今日仕事だったらこんなことずっと考えなくて済むのにな。ローランドが帰ってくるまであのことを伝えられないだなんて、わだかまりが残ったままだ。
ローランドが帰ってくるだろう時間までゆっくりと自分の時間を過ごすことにした。テレビをつけると猛暑を注意喚起する天気予報、おすすめの避暑地、レジャーランドの様子など流れてくる情報が頭の中に入ってすぐにどこかに行った。しかし何か、頭にこびりつくものがあった。
「いいなあ、親子で旅行……かあ」
最新の大きな画面のテレビに映るその映像が脳裏に焼き付いて離れなかった。
……睡魔が襲う。
ーピンポーン
どのぐらい寝ていただろうか。ソファでテレビを見ていたら心地よくなってしまった。
「コーラル!帰ってきたぞー!! 」
隣の住民の部屋にも響き渡りそうなローランドの声。ガチャリ、とドアを開けると雨がざあざあと激しく降っており、
「ええっ!大丈夫!?すっごい濡れてるけど!!」
「ああ!!全ッ然大丈夫だ!!!!」
全身びしょ濡れで恋人が帰ってきた。
電話してくれたら傘を持って最寄り駅まで迎えに行ったのに。
「でも、コーラルのたまの休みだから! 」
だからゆっくり休んで欲しかったんだ!と屈託のない笑顔で彼は言う。いやいや、そんなそこまでして……。
それに通り雨だしな!と気を遣ってくれる。嬉しいには嬉しい。けど、なんだかちょっとだけ呆れてしまうけどそういうところあるよね、君は。ふふっと笑うと彼は頭上にはてなマークを浮かべた。
柔軟剤でふわふわと仕上がっている白いタオルでローランドの髪をわしゃわしゃと拭き水分を布に染み込ませる。びしょびしょになったローランドの服を洗濯かごに入れる。
「そのままお風呂入ってきちゃいなよ」
「湯が貯まるの長いからなあ……シャワーでいいんだが」
「ダメだよ、ちゃんとあっためないと」
「……はーい」
お湯を沸かすとふんわりと湯気が立つ。今から30分後ぐらいに満タンになるかな?と携帯のタイマー機能をセットした。
「ローランドがお風呂から出たらホットココアでも淹れちゃおうかな」
「本当か!?急いで出てくる!!」
「だめだよ。湯船に入って50数えてきてね」
「子供か、俺は!!……あ、そういえば」
ガサゴソと通勤鞄の中から何かが入った茶色いクラフトの紙袋をローランドは取り出す。紙袋には朝食に食べたクロワッサンの店のロゴが緑色で大きく書かれていた。
「クロワッサン!買ってきたんだ。いつも朝食に出してるやつ!俺これにハマっていてな!」
「あの夫婦で経営してるお店の?」
「そうだ。仲睦まじく笑顔で迎えてくれるんだ。俺がHANOIっていうのにも全然気にしないし、何より焼きたてのパンの匂いが最高なんだ!」
しかし雨の中、パンの紙袋が入った鞄を抱えて持って帰ってきたものなので、あのサクサク感を再現できるように思えなくなってしまった。かろうじて雨水に濡れた部分は少なかった。とりあえず、ローランドが湯船に浸かっている時に試しにトースターで焼いてみようかな。
1時間ほどすると風呂から上がり、ローランドは頬を紅潮させながら、ほかほかの状態でリビングに戻ってきた。パジャマは無地の黒色で、タオルで拭ききれていない髪の毛の水分がぽたぽたとパジャマに染み込む。
「乾かしてあげるからこっちおいで」
そう言うと、彼はまるで犬のように僕の前に座った。先ほど雨水を含んだ髪を拭いていた時よりも丁寧にドライヤーで乾かす。とてもリラックスして目を瞑っていて、なんだかこちらまで癒される。うとうとと微睡む姿はまるで昔近所の人が飼っていた大型犬みたいだ。思わず笑みが溢れてしまう。
「可愛いね」
瞬間、ローランドがガバッと振り返る。思わず言葉に出してしまっていた!彼は僕の顔をじっと見つめると、顔を真っ赤にした。それを見ていると気持ちが伝染しそうになる。ドライヤーの電源を切った。
「好きだよ、コーラル」
耳元でボソリと囁かれる。
あ、キスされる。
そういう雰囲気の中なのに僕はそれを拒んでしまった。彼の肩に手を置いてゆっくりと離した。
「僕は君を幸せにできない」
今朝言った言葉を再度繰り返す。
「どうしてそんなことを言うんだ?お前、今日おかしいぞ」
ゆっくりと離した距離は元に戻される。むしろ彼は距離を勢いよく詰めてくるので部屋の隅の壁に追い込まれる、そのような状態になっていた。
「考えたことない?」
「何が?」
「僕たちの関係について」
ローランドは真顔のままでいた。
「そんなことずっと考えていたのか?いつから!?俺との暮らしは不満だったのか!?」
顔と顔の距離が更に近くなる。
「……何を言いたいんだ?」
「伝えたいことがあるから、ちゃんと聞いてくれたら嬉しい」
「ああ……」
「でもその前にちょっとおやつタイムにしよ? ローランドが買ってきてくれたクロワッサンをトースターで焼いたんだ。あとココアも淹れるからね。
……落ち着いて話したいんだ」
「わかった」
そう言うと彼は表情を緩めた。
今朝、朝ご飯を食べたテーブル。椅子を引き、向かい合わせで2人座る。なんとかあのサクサク感を保ったクロワッサンを、熱く深い茶色のココアで流し込む。食べると気持ちがじんわりと落ち着く。そのあと本題を切り出したのはローランドだった。
「俺に何か不服があったりしたら教えてほしい」
「ううん、そうじゃないんだ」
「それじゃあ……何だ?」
「僕の勝手な思いだよ」
すぅ、と息を吸い込みなんとか声を発した。
「家族が欲しいと思ったことがある」
その言葉に目の前の同居人は呆然としている。
「でもお前は普通に親御さんがいたと言っていたじゃないか」
「いたよ。でもね、仲は良くなかった。僕を見ていてくれた育児用HANOIがいて、その人をむしろお母さんとさえ思っていたよ」
「へえ、そうなのか。だからお前は俺たちHANOIにも平等に接してくれたんだな」
TOWERにいたあの頃は本当に嬉しかったよ。
ぽつり、と言葉を零すのが聞こえた。
「うん。あの頃は大変だったけど、みんなと一緒に過ごした時間はとても大切で今も付き合いがあることがすごく嬉しいんだ。みんなが好きだから僕はみんなに幸せになって欲しい」
「しかし、」
ローランドは鋭い眼光でこちらを見る。
「『みんなに幸せになって欲しい』にコーラル・ブラウンは入っていないんだろう?」
唇の端が気持ちとは関係なくただぴくりと動く。図星だ。
「……そうかもしれないね。
僕はね、先ほど言っていた通り家族が欲しいんだ。ずっと一緒にいられるー」
「友人ではだめなのか?」
「ダメじゃない、ダメじゃないんだけどね。人生のパートナーが欲しいんだ。一緒にいて安心できる、そんな人が……」
「なるほど、お前は所謂幸せな一般家庭ってやつに憧れているんだな」
「そうなのかも。
だから、クロワッサンが売ってるパン屋さんが夫婦経営だったりとか、テレビのインタビューに答える親子だとかそういうのに最近敏感になってることは否めないよ。」
沈黙。
「俺じゃ……ダメなのか?」
「僕は、僕が死んだ時ローランドが1人になるのが耐えられない」
とうとう口に出してしまい、言いながら目に涙が溜まっていく。
「縁起でもないことを言うな……!」
「そんなことばかり考える。なんでだろう?僕が仕事でHANOIと関わっていて感じたこと。それは、人間との差異なんだろう。僕たち人間には命に有限があるんだ。そう思うと、怖くなる。僕がいなくなっても君たちは存在し続けられるんだ」
「それでもそれは事実だろう」
「でも、最近ひしひしと自覚してしまう。最近は人間と異性のHANOIが結婚できる世の中になったよね。それはとても喜ばしいことだと思った」
「……そうだな」
「そのうち人間とHANOIの同性同士でも結婚できるだろう。HANOIの地位が上がったことで多様性がさらに謳われる」
「いいことだろう?」
「HANOIと携わる仕事に就いてるからこそ、一番……分かってるんだ。
これは"生産性がない"ーと」
べらべらべらべら。何を口走っているんだろう。不安な気持ちが言葉に乗ってしまう。
「普通に結婚して、普通に子供が欲しい……」
時が止まった。
こんなことを言うはずではない。分かってる。なのに……。
「……お前の言うことは分かったよ。でも、それでこれからどうしたい?」
「僕はーー」
……それでも君といたい。
「俺はお前と一緒にいたいよ。ここで突き放せるほど器用じゃないんだ」
「うう……」
視界が滲む。彼にはこんな確固たる僕への想いがあるのに、傷つけてどうしたいというのか?
「……続き、言っていい?」
「ああ……」
「僕は夢があったんだ。
かわいらしいお嫁さんと結婚して沢山の子供に囲まれるんだ。それで子供の成長を見守るんだ」
「そうだったらよかったな」
「そして美味しいものを食べて旅行して、ああ僕の人生は最高だったなと思うんだ。」
「いいな、それ」
「そういう……普遍的な人生を思い描いてた。
でも……、やっぱり君と一緒にいたい」
ローランドが目の前にいる。柔らかな笑みを浮かべている。
「だって……、こんなもの渡されちゃったら、君以外考えられなくなっちゃうよ」
今まさに手渡された赤いフォトアルバム。
それを開くと、僕とローランドの思い出の写真が綺麗に並んでいた。
付き合って初めてしたデートの写真。ローランドはテーマパーク前でピースをしている。パンケーキを前にテンションが上がる僕、という図をこっそり隠し撮りされていた。
そして、ローランドが買ってくれたペアリング。銀色の指輪にはおもちゃの赤い宝石がついていた。それを嵌めた2人の重ねた手だけを写した写真。
「コルクボードにも飾っていない写真ってまだこんなにあったんだね」
「俺のスマホで撮った写真を最近現像したんだ。このデート写真はいつか思い出になるんじゃないかなって思ってさ。ちょうど良かったよ。コーラルを引き止めることができた」
白いカーテンに射す夕焼けが、目尻を下げるローランドを一際輝かせ、眩しい。雨はもう上がっていた。
「この指輪、まだ持ってる?」
「ああ持ってるよ。でも……」
見慣れない黒いリングケースには高価そうな指輪が入っていた。虹色の煌めきをする宝石がついている。
「ペアリング……新しく買ったんだ。宝石はお前の誕生日石のオパール。10月だろう?まだまだ先だけど、早めにお祝いしなきゃな」
「嬉しいけど、なんで?」
「そんなの……お前がこんなにも思い詰めるからに決まってるだろう!? 」
そう大声を出すが少しすると優しい笑みを浮かべ、
「好きだよ、コーラル」
僕に愛の言葉を囁いた。
「コーラルは?」
「僕もローランド、君が好きだ」
ローランドの大きな胸に飛び込み抱きしめた。この指輪はきっと結婚指輪と変わらない価値があるのだろう。
「大体、お前が死んだら俺は独りになるって当たり前のことを今更言うよな。それを分かっていて今お前と一緒にいるんだよ。お前がいなくなってもこの思い出をずっと抱えていくよ。何も無駄なことではないだろう? 」
「うん……!」
今を、この瞬間を大事に過ごしていこう。いつか離れ離れになってもこの思い出は永遠なのだから。
「あ、そうだ。あのね、ローランド」
「ん?」
「やっぱりテーマパークで買った指輪を今はしていたいな」
「なっ……!せっかく稼いで買ったというのに!!」
と言いつつも、しぶしぶと可愛らしいあの思い出の指輪を出してくれる。
「まだ、これがいいんだ」
「そうか。じゃあ、お前の誕生日に渡すかな。ちょうど誕生日石を選んだしな」
「そういえばローランドの製造日はいつなの?」
「それが知らないんだ。だからー、お前の誕生日が俺の生まれた日にしようかな。勝手に決めても今更俺を作ったやつなんてとっくに忘れているさ」
「そっかあ。じゃあ、2人の誕生日、お祝いしようね」
そう微笑むとローランドも溢れるような笑顔を見せた。
「約束だよ」
2人、指輪を交換した。
「僕は君を幸せにするよ」
「俺も負けずに幸せにしてみせるさ」
これは最上級の愛だ。
ーずっと一緒にいよう。
言葉にせずともその想いはきっと通じ合える、そんな気がした。
end.
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